内藤愛
megumi naito
exhibitions

午時葵の子守唄 A Lullaby for Cistus / Solo Exhibition / 2026

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明日わたしは死ぬだろう。 そう思って飲む一口の水は、 身体の中をどんな響きで流れるだろう。 内側を流れる小さな音すべてに、 耳を傾ける。 午後のうちに枯れて萎れる午時葵の花は、 「 明日わたしは死ぬだろう 」 という花言葉を持つ。 「 今 」 は生と死の循環の一部であると知覚する。 「 resp. 」 シリーズでは、 呼吸や生命運動を起点に、 生命と環境とのあいだに生まれる応答関係を扱っている。 本展示では、 娘の誕生花である午時葵の花言葉を入り口として、 死を意識することで、 生や自然との接続をどのように知覚し直せるのかを考えている。 水を飲むこと。 呼吸をすること。 身体の内部を流れる感覚に耳を澄ますこと。 それらは普段、 あまりに当たり前で、 意識されることが少ない。 しかし、 「 明日わたしは死ぬだろう 」 という死の側から生を見つめる視点に立った時、 身体の内側で起きている微細な変化の響きに気づき始める。 本作では、 水や空気を循環させるチューブや構造体をあえて露出させている。 それは生命を機械的に置き換えるためではない。 人間もまた、 大きな自然構造の内部で揺らぎながら存在していることを可視化するためである。 本作で用いている運動は、 モーターの回転による一定のリズムを持った運動である。 しかし、 その運動の中に水や空気という自然物を通すことで、 水は流れ、 空気は循環し、 一見一定に見える造形物の動きにわずかな揺らぎが生まれた。 その変化に触れた時、 私はそこに強い生命性を感じた。 生命とは、 固定された物体ではなく、 流れや循環の中で変化し続ける運動そのものなのではないかと思う。 野生の生命は、 「 食べる / 食べられる 」 「 分解される / 還元される 」 という循環の中に存在している。 死は終わりではなく、 循環を持続させるための運動として機能している。 一方、 人間は文明化や資本主義化の中で、 死や死に向かう過程、 腐敗や分解を社会システムの中に回収してきた。 その中で生きていると、 自分自身もまた自然の循環の内部に存在しているという感覚が、 少しずつ希薄になっているように感じる。 もちろん、 物質として人間は自然から逃れることはできない。 火葬された身体もまた、 煙や熱となって空気へ還り、 元素として地球の循環へ戻っていく。 しかし現代社会の中では、 その循環を身体感覚として実感する機会が少なくなっているようにも感じる。 生と死が循環の中にある感覚を失った時、 生命そのものを抽象化して扱ってしまう危うさが生まれるようにも感じている。 そんなことを考えていると、 「 今、 人間は何を循環させているのか 」 という問いが浮かぶ。 人間は肉体だけでなく、 記憶、 言葉、 文化、 技術、 知識、 情報、 を継承している。 それは、 生態系とは異なる 「 情報の循環 」 とも言える。 その情報は、 自然循環に寄与しているのだろうか。 あるいは、 人間だけを自然から切り離す方向へ加速させているのだろうか。 クジラの歌、 菌糸ネットワーク、 鳥の渡り、 DNAの継承。 自然界にもまた、 多様な情報伝達が存在している。 だとすれば、 人間の情報系だけが異質に見えるのはなぜなのか。 本展示は、 その問いに答えを与えるものではない。 ただ、 水の流れる音や、 呼吸のような揺らぎに耳を澄ませながら、 人間もまた循環の中に存在していることを、 静かに知覚しようとする試みである。